公案禅

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信207号」の内容を再編集して掲載しています。

禅の会の若い人たちが、公案(禅の問題)にずいぶん興味があるみたいなので、希望する人には、その人にふさわしい公案を与えて、それを解いてもらうというレッスンを始めています。

もちろん、坐禅の究極は、「坐禅という形」を信じてただ坐ればいいわけで、そうすれば自然と身体も心も生活も運命も整って、好転してゆくものなのです。
ですから、ただ坐るということが生活の心棒になってゆけばもうそれだけでいいことなのです。それだけで家庭も仕事も順調に事が運ぶようになりました、という方がたくさんいらっしゃいます。

しかし、それは「坐禅に公案なんていう、不純なものを持ち込んではならない。ただ坐ることに専念しなければならないんだ」という頑なな主義主張や、他者否定になってしまうと、これはまた間違いだと思うんですね。
学びの道行きは人により様々です。いずれの道をたどっても、ゴールは同じ「ひとついのち」なのです。

私の場合は、ただ坐るという坐禅から禅に入門しましたが、それに飽き足らなくなって、公案という問題を解く禅を実践して、歳を取ってからまた、ただゆったり坐るだけという坐禅(許し、ほどき、微笑みの坐禅)に戻ってきました。

しかし、公案禅での修行体験は寄り道でも、無駄足でもありませんでした。この修行経験は私にとってはとても大きなものでした。
この公案禅での体得がなければ、教師としても、文章を書くという役割の面でも、今のような成果を上げることは出来なかっただろうと思います(私の場合はそうだった、ということですよ。すべての人に必要な修行だとは言っていません)。

ですから、若い人が公案にチャレンジして解いてみたいという気持ちになるのは、私にはとても理解出来ることなので、正直面倒なことではあるのですが、彼らにお付き合いしてあげることにしたのです。

さて、禅で師匠から弟子に与えられる「公案」というものはどういうものなのでしょう。その説明から入らねばなりませんね。

「公」という漢字を構成する「ム」は、「囲い」という意味です。また「ハ」は「開く」という意味です。
ですから、「公」は、「個人性の囲いを外す、個人性を超える(トランスパーソナルする)」という意味なのです。 
個人性の囲いが外れれば、「宇宙いっぱいの自分(これが真自我)」が出現します。
とりあえず、公案禅では「宇宙いっぱいの真自我」の自覚を得るために坐るのです。
しかし、その自覚を得ることだけが公案禅のすべてではありません。

その「公」は、そんな真自我の自覚さえきれいさっぱり忘れて「案」に到達出来なければ意味がありません。

「案」という漢字を構成する「安」は「一番適切な位置に人やモノや物事を落ち着かせる」という意味です。「木」は、その安定を得させるための「支持台」のことです。
人やモノや物事を一番適切な位置に台を置いて、グラグラしないように据えつける。これが「案」という漢字の原義です。

「案内」というのは、たとえば事務所に人がやって来たとして、案内係の人は、訪問者の「こういう手続きのために来ました」という用件を聞いて、その用件に一番ふさわしい部署に導いてあげるのが「案内」ですね。
「考案」とは、いくつかの要素(部品)を、その性能に合わせて、それぞれいちばんふさわしい位置に配置して、そのそれぞれが、また全体としての機能が、最高度の性能を発揮出来るようにするアイデアのことですね。

「宇宙いっぱいの自己」を自覚して、その充足、静寂、喜びに浸っているだけではダメなんだよと公案禅は言うのです。
「公」というその自覚が本物になるためには、現実世界にそれが「案」という形で表現されねばならないのです。

その時、その場で、人やモノや物事のために、宇宙全体の秩序から見て、最善、最適の行動が取れたり、発言が出来たりしなければならないのです。そのためのトレーニングが公案禅だというわけです。

公案禅のトレーニングは、まず「公」になるプロセスから入ります。
師匠から「公案」という問題を与えられます。

たとえば、「イヌに仏性があるでしょうか?」というある僧の質問に対して、趙州禅師は「ナイ」と答えた。なぜイヌに仏性がないのか?
これが「趙州じょうしゅう狗子くし」という有名な公案です。

公案を師から与えられたら、あらゆる方向からその公案について考えます。
文献にあたって、文章の意味を徹底して調べます。
そして、その公案の文章を繰り返し繰り返し称えて、その文章を空で言えるようになるまで記憶します。記憶することはとても大切なことです。記憶できたということは「心」のなかに、その文章が刻まれて定着出来たということなのです。その心に刻まれた文章は、切実な疑問や願いをともなったものであれば、心さんが疑問の場合は正解へ、願いの場合は願いの実現へと運んでくれるのです。

私は師匠から与えられた公案の文章を念仏のように、坐禅しながら繰り返し称えていました。歩いていても、単純な作業をしている時にも称え続けることができますね。

さらに、この公案ならイヌをイメージする方法もあります。
さて、あなたの場合はどんなワンちゃんがイメージに浮かんできますか。そのイメージのワンちゃんに意識を集めていると、やがてそのワンちゃんにいのちが宿ります。いのちが宿ったということは、あなたの意識のコントロール外のところで、イヌ君が歩いたり、座ったり…、独自のふるまいをするようになるので分かります。そしてある日、ついにこのワンちゃんがトコトコ正解というゴールまで歩いていってくれたり、あるいはコトバや動作で解答を伝えてくれたりするはずです。

公案という「疑問」に意識を持続的に集めることが出来るようになると、ある瞬間に個人性の制限制約の枠組みが破れて、「公」の状態に突入します。
そんな「公」の状態になれたら、もう頭を働かせなくても、自ずからその公案の答えが降りて来たり、湧いてきたり、浮かび上がってきたりします。その答えはきっと「案」になっているはずです。つまり、その場、その時の、あなたにとって、師匠にとって、宇宙全体にとって、これ以外にはあり得ないという最善最適な答えになっているはずなのです。
 
公案を解くということはこういうことで、人によってレベルはまちまちですが、とりあえず「問題解決技法」が身に付くのです。
各分野で一流のお仕事をなさっている方は、無意識のうちに、あるいは意識的に、そんな問題解決技法を使いこなしていらっしゃいます。

そんな問題解決技法が公案禅の修行に取り組むと、意識的に使えるようになるのです。
なにか仕事や人生の難問題が出てきたら、まずその問題について徹底的に、あらゆる面から考え、その問題を「心」に定着できれば、個人性の限界が外れて、宇宙全体の智慧やパワーが発動して、必ずその問題の「解答、解決」は出てくるのだという自信を、公案禅に取り組んで解答出来たという成功体験が植えつけてくれるのです。人生における大きい課題でも、小さい問題でも、この公案禅の「問題解決技法」でクリア出来ないものはありません。

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