白隠禅師 坐禅和讃
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆この中に帰するなり
『善行』とは、どんな行為のことなのでしょうか。
エゴの囲いが強い人は、自分という幻想のサークルの内側にお金や品物などを出来るだけ沢山貯めこもうとします。出来るだけサークルの外にそれらが出ていくのを阻止しようとします。
善行はそれに対して、自分の所有物の一部を、自分という囲いを破って、他の人や社会のためにと、さし出す行為のことをいいます。
そういう行為は人には美しい行為のように見え賛美されます。
逆に自分だけの利益のために行動するのは、人には醜い行動のように見え、度が過ぎると、悪行として非難されます。人は本能的に、自分という仕切りが幻想に過ぎないということを知っているので、エゴの殻を破る行為こそが、正しくて美しい行動だと判断するわけです。
善行は、ですから自分という幻想の囲いを破って、自他のいのちをひとつに解放してゆくのにとても良い修行法なのです。
例えば、『布施』は、自分が大切にしているモノや身を、自分という囲いを開いて、他のためにさし出す行です。
『持戒(戒を持つ)』は、我がままに、我勝ちに、エゴの行動に突っ走ろうとする自分にブレーキをかける修行です。
『念仏(仏を念ずる)』は、自分という小さないのちの全部を捧げて(放棄して)、仏(ひとついのち)と一体化しようという行です。
『懺悔』とは自分という小さな囲いの内側を護るために、他に対して行った悪いエゴの行為を反省し、もう二度と自分勝手な行動を取らないと誓う行です。
これらの『善行』は『波羅蜜』です。『波羅蜜』とは『波羅(ひとついのちの自覚、仏の悟りというゴール)を蜜(達成させる)ための修行』という意味です。
しかし、世の中にはずいぶんネジ曲がった人もいるもので、人には善に見えるような行動をしていながら、実はそれによって自分の評判を高め、自分の価値を上げてエゴの欲望を満足させようと図る人(善行に見える行為によって、ますます自分という囲いを硬くする人)も出てくるわけです。
そういう副作用もある善行修行に比べて、大乗の坐禅は、はた目にはただおっとり、のん気に坐っているだけです。人のために何か善い事をしているようには、ちっとも見えません。
しかし、坐禅の時、その温気で、自分と世界の氷を溶かしつつあります。自分と世界の仕切りをほどいて宇宙一杯生き通しの仲良し親善交流をしています。自分にも分からない、人にも知られませんが、その大乗の坐禅は暖かい光を世界いっぱいに放って、世界中の人、動物、モノたちを安心させ、癒し、元気づけているのです。
それほど素晴らしい功徳を積んでいながら、自分も知らない、人に褒められることもないというのですから、こんなに純粋で、徹底した善行はあり得ません。坐禅行とは、そういう実に純粋で、気高い、最高の善行なのですから、坐禅行の功徳は最高なんだと白隠さんはおっしゃるのです。
また、この大乗の坐禅の時、宇宙に仕切りがなくなり、一体となっています。布施や持戒といった善行にまい進しているAさんやB君も、実は、外の存在ではなく自分自身なのです。Aさんという自分が、B君という私が善行をしているのです。ですから、『皆この中(坐禅の中)に帰するなり』とあるのです。