易経に学ぶ「真の豊かさ」

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信167号」の内容を再編集・改訂して掲載しています。

今回は、易経の『豊』の卦の勉強をしましょう。

「真の豊かさ」、「永く続く豊かさ」とはどういうものなのか、易経は教えてくれます。 

「豊富の気」が、これを受けよと世界全体を覆っています。
しかし、それでも身も心も貧しい人が出てくるわけで、これはなぜなのでしょうか。

それは、自分の周りに壁を設けて、その「豊富の気」の流入を自ら遮断してしまう人がいて、そんな人はこの恩恵を受けられないということになるのです。

それはあたかも、宅急便のおじさんがやってきても、その人の家が頑強なバリケードで覆われていて、おじさんは、チャイムのボタンまでも到達できないので、贈り物を届けようがないというようなものです。

もう自分が、自分がと、突っ張ることは止めにしましょう。
自分の至らないところは正直に認め、人を非難せず、自分が弱い人間であることを受け入れ、一切を神様の愛の力に素直にお任せすることにしましょう。

このように、素直で謙虚な気持ちになれると、自分が世界や国や人々や家族からいかにたくさんの好意と恵みを頂いていたか気づけるようになります。

そうして、しみじみと感謝の気持ちを持てるようになると、閉ざされていた心のバリケートが撤去されて、自ずと豊かなプレゼントが次々やってきて驚くことになるのです。

しかし、うまく回り出したと、その勢いに踊らされ流されて、調子に乗って浮ついた行動に走ってはいけません。そんな好調はすぐしぼんでしまいます。

まずは、知識を「豊か」にし、心を「豊か」にし、人間関係を「豊か」にする努力をする時期が到来したのだと、つまりやがて必ずやって来る「世に出る」、日の出の時のために、基礎的な人間力を「豊か」にするよう、学ばねばなりません。

自分だけが、自分が所属する団体だけが豊かであればいいというような、エゴの道をゆけば、やがて必ず行き詰まりとなります。公明正大な無私の王道を行けば、回り道のようでも、結局は早くゴールできるでしょう。

エゴの道を進むべきか、いや王道をゆくべきか、そんな岐路にさしかかって、意見の対立が起こり、道を異にするグループや人物が出てくるかも知れません。

そんな際、その別れによって、活動が後退するような状況になるとしても、あやまたず王道を選択することができれば、やがて、天からの豊かな流入があり、活動が末広がりに加速されるでしょう。

大切なのは、活動が本格的になればなるほど、我欲の道に進まぬよう、自分を強く律してゆかねばならないということです。

活動が本格的になればなるほど、金銭欲、名誉欲、権力欲、地位欲、性欲などをくすぐられる場面も増加してくるでしょう。それらの欲の誘いを拒否して王道を行く自律の精神が必要です。

地上に積み上げた冨は、満月がやがて欠けてゆくように、散逸してゆくでしょう。しかし、天に積んだ冨はいつまでも尽きることなく子孫に引き継がれてゆきます。

天に冨を積みましょう。
天に冨を積むには、人のしあわせのために、無私の心で、金銭や労力や智慧を、出来る範囲内で提供してゆく布施の活動をすることです。それが天に徳を積むことになるのです。

冨を自身のために蓄積するのでは、それは<罪の積み>になってしまいます。その利益の一部を割いて、世のため、人のために差し出すようにすれば、それがさらに何倍にもなって帰ってくるでしょう。それは、天の「君の善行の預金は確かに天の銀行が受け入れました」という領収書と利息なのです。

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