内側と外側

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)
はじめに

学校に勤めていた時、学年通信などで書いた文章は、このままでは散逸してしまうので、ブログに掲載して記録に残しておくことにしました。字数が限られているので、説明を省いて結論だけをポンポン出していっているので、思考の後をたどるのが難しいかもしれません。

でも、人に説明したあげるつもりで、じっくり読み進めてくださると、とてもいい勉強になると思います。

意識の上昇は意識の拡大を伴います。

故に、人は人として向上すればするほど、自分の内側の領域が広がり、自分の外側のものが少なくなるのです。


生徒指導部長が始業式で言われたように、自分の周りに50cmのサークルを描いて、その内側にしか意識が届かないという人もいます。そんな人は残念なことには、意識レベルがとても低いと言わざるを得ません。

人は人として成長すればするほど、意識が届く(思いやれる)範囲が広くなります。


半径50cmの人は、自分以外の人やモノはすべて自分の外側に在ります。

外側のモノですから、その人やモノの身になって共感したり、一体感を持つことは出来ません。だから、そんな危うげな、はかない自分(半径50cmの孤立)を守るために、攻撃的になったり、防御壁を高く築いてその中に閉じこもったりするのです。


ケン・ウィルバーは『我々の(人生)体験における戦い-葛藤、不安、苦しみ、苦悩-は、我々が勝手にでっち上げる諸々の(自他、内外を分ける)境界によって生み出されるものである』(『無境界』-自己成長のセラピー論、平河出版より)と述べています。


道元禅師は『自己、他己たこ』というコトバをよく使われます。
『自己』とは、『自分として現われた己(おのれ)』のことであり、『他己』とは、『他の人やモノとして現われている己(おのれ)』という意味です。

意識が向上し、同時に意識が届く領域がどんどん拡がっていくと、これまで、他者であったモノや人がどんどん自分の内側に入ってきます。身内の存在となってゆくのです。


意識の中心を上下自由に移動出来るようになるに従って、同時に水平方向にも移動可能となります。自然にモノの身となり、人の立場に立って共に悲しみ、一緒に汗を流せるようになるのです。


『ある会合があって、孔子も参加していました。その会議に参加するため、盲目の音楽家がやってきました。孔子は席を立って、、その人のところに行って挨拶し、手を引いてその人を席まで案内しました。そして、着席の世話をされた後、「右隣に何々さんがいます。左隣は何々さん、向かいは何々さん・・・」という風に参加者全員の座席の位置を紹介してから、自らの席にもどられました』(論語の一節)


盲目の音楽家を見て、その音楽家の立場まで意識を移動して、その位置から感じられる不便に共感します。そして、今度は、自分自身に意識を戻して、その立場から、この音楽家の不便を少なくするために出来る一番適切な行動を選びとり実行したのです。

意識の水平移動可能とは、つまり、こういうことなのです。


自分がじぶんであり、人も実はじぶんだったと気づいた時、  
自分は限りなくじぶんでおればいい。そう知った今の深い安らぎ。

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