古代語のひびき

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信208号」の内容を再編集して掲載しています。

カドカワさんから、今度は『古事記』の本を書きませんかと、ご提案頂いたので『古事記』を読み返しています(『古事記開運法』執筆時の話です)。
そうしているうちに、色々と新しい気づきもあったので、そのいくつかを紹介させて下さい。

『全国アホ・バカ分布考-はるかなる言葉の旅路』松本修(新潮文庫)という本があります。 
これは、もともと朝日放送(ABC)の『探偵!ナイトスクープ』という番組の企画から始まったものだそうです。

ある大阪生まれのサラリーマンの男性が、東京出身の妻と言い争う際に、自分は「アホ」、妻は「バカ」という言葉で相手をなじるということに気が付きました。
そこで、ふと東京と大阪の間に「アホ」と「バカ」の境界線があるのではと思い、「東京からどこまでが『アホ』で、どこからが『バカ』なのか調べてください」と番組に依頼してきたのだそうです。

その依頼を番組が企画として取り上げ、東京駅からJRで下ってゆき、各地で途中下車して実地調査してゆきました。

東京はバカ、静岡もバカ、ところが次の名古屋では突然タワケが出現し、岐阜も同じタワケで、米原がアホ、それから大阪までアホだったので、結局「関が原」(東西決戦があった地ですね)のあたりが「アホ」と「バカ」の境界線らしいということになったそうです。

この企画が結構好評だったということで、さらに調査が継続されました。
そうすると、アホの神戸を過ぎて、姫路はダボ、四国の香川県ではホッコ、北陸の富山ではダラというように、各地で多種、さまざまな言葉が使われているということも分かってきたのです。

そこで、視聴者から、住まれている土地で使われているアホ・バカに相当する言葉を情報提供してもらい、さらに言語学者の協力もお願いして、各地の教育委員会のアンケート協力も得られるようになって、ついに詳細な「アホバカ全国分布地図」が完成しました。

その地図をながめると、面白いことが分かります。
京都を中心にした同心円上の地域(つまり京都から同じ距離にある地域)で、同じ言葉が使われているのです。たとえば、東京は「バカ」で、九州北部地方もやはり「バカ」なのです。

なぜそうなっているのかというと、昔は京都が文化の中心で、地方の人にとっては憧れの都だったわけですね。
それで、京都人が使っている言葉を周縁地域の人たちが真似して使い、それが流行語となって次第にさらに遠い周縁地域へと広まっていったのです。

昔は、テレビなどの距離によらない情報提供はなかったわけですから、言葉は口コミだけでゆっくりゆっくり伝播してゆきました。
ですから、京都から等距離にある地域で同じ言葉が使用されているのです。
つまり、その地方で現在使われている言葉は、過去に京都で使われていた言葉なのです。

京都を発信源とする同心円状の波が次々外縁に広がってゆくという様をイメージして下されば分かりやすいと思います。
そうしますと、京都から遠い地域ほど、京都で古い時代に使われていた言葉が現在も使用されており、古代に京都で使用されていた言葉が今でも保存されているということになりますね。

さて、今度は世界に眼を向けて、この研究調査の結果を応用してみるとどういうことになるでしょう。 

京都に相当するのは、最古の文明発祥地、エジプト・メソポタミア地方です。その地で創造された文明や言葉が次第次第に同心円状に伝播してゆきました。
そして、その地から遠い地域ほど、古代の文化や言葉が、今でもよく保存されているということになります。

そうしますと、エジプトやメソポタミアから一番遠い地域は、間違いなく日本列島なのですから、日本人の生活様式や文化、日本人が使用する言葉には、人類最古の言語が一番色濃く保存されているということになりますね。

さて、では人類最古の言葉は、どういうものだったのでしょう。
それはきっと今の言葉より、身体活動に密着した、本能的なものであっただろうと想像できます。

現在人の言葉は頭の比重が大きいものになっていて、身体の体重がしっかり載らないでも外界に向って放たれてしまう、軽薄で力のない言葉になってしまっていることが多いのですが、古代人の言葉は身体全体を使って発声され、言葉にしっかり身が入ったものになっていたので、言葉にいのちがしっかりこもり、威力があったのだと思います。

そのように、いのちがしっかりこもった全身的言葉のことを、古代の人は「言霊ことだま」と呼びました。
そして、「言霊」は、「事霊ことだま」で、その言葉どおりの現実を「形の世界」に生み出す強い創造力を持っていたのです。

ですから、古代の人々は、「言葉」を神として敬い、畏れもしたのです。「言霊の力」は、今の時代にはもうないのだ、というわけではありません。
古代語で綴られた祝詞や大祓詞や古事記の文章の音読すると、その言葉のひびきが、「言霊の力」を引き出してくれるのです。そして、その「言霊力が、あなたの願いを叶えたり、運命を好転してくれたりするのです。

私は、古事記(特に前半の神代編)を音読すると、身体全体に微妙な「振動(波動)」が始まるのを感じます。

その「振動」が言語中枢に到ると、その中枢から、フツフツ、絶えることなく言葉が湧き上がって止まらなくなることを体験しました。

それからです。私は突如として、文章を書くという、これまでまったく無縁であった能力を発揮することが出来るようになったのは…。

その「振動の感覚」は今でも続いていて、『古事記』や『大祓詞』などを称えると必ず、いのちの一番奥の「言葉の泉」から、いくらでも文章が湧き出してきます。
ですから、私は「ああ、心が枯れてきたなあ。文章が書けなくなってきたなあ」と感じると、『古事記』などの、古代語の文章を音読することにしています。
そうすると、再び「言葉の泉」から、いくらでもこんこんと、これまで私がまったく思い描いたこともないような新しい言葉や文章でさえ流れ出してくるようになるのです。

これは、言語中枢への「古代語のひびき」の働きかけの例ですが、この「ひびき」は、全身体的な、根源的なものなのですから、他の中枢、たとえば「運動中枢」などにも作用を及ぼします。

私が『古事記』を音読する時に、この古代語の「ひびき」が、運動中枢に伝わると、その中枢から、思いもよらない身体活動が、無意識のうちに(頭を通さずに)繰り出されて来るようになります。

私は、運動家や武道家や舞踏家ではないので、これを健康法ぐらいにしか活用出来ないのですが、もし武道やスポーツをなさっている方なら、その根源的な「ひびき」から無限のバリエーションを持った、型にたよらない、型にはまらない、型を超えた有効なワザや美を、無心の内に、限りなく繰り出してゆけるようになるでしょう。

たとえば、合気道の植芝盛平先生などはその典型ですね。
先生は神道の修行をされて、そんないのちの根源の、無限創造の「ひびき」を体得され(先生はこの根源の「ひびき」を「サムハラ竜王大神」と人格化して祀っておられました)、それで自由にワザを繰り出してゆけるようになられたのです。
先生は、「ワシは何もせんのじゃ。ただ立っているだけじゃ。そうしたら、相手が勝手に倒れて行くんじゃ」と言っておられますが、これは、先生のワザが頭を通さない、全身体的動きなので、先生には自分は何もやっていないという風に感じられるわけですね。

私の文章の場合も同様で、自分が書いたという実感がほとんどありませんし、書いたという記憶もほとんど残りません。
頭を通せば(頭の中で思いを巡らせて作り上げる文章なら)記憶に留まりますが、頭をほとんど使わない、全身体から発生する言葉や文章は、記憶に留まるということが少ないのです。

剣道で一派を開かれた達人たちも、植芝先生と同様に、ほとんどの方が神道の修行をされて、無限のワザを繰り出してゆく根源の「ひびき」の悟りを得られ、ワザを超えた、ワザのないワザを限りなく生み出してゆくという能力を開発されたのです。

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