『即身成仏義』解説-その1-

しあわせ通信(毎月1日・15日更新)

本記事は「しあわせ通信202号」の内容を再編集して掲載しています。

空海さんの『即身そくしん成仏じょうぶつ』の解説をしておきたいと思います。

この『成仏義』では、なぜお経を称えたり、印を結んだり、行を実践したら、仏や菩薩と通信回路がつながり願いが叶うのか、その理論的根拠を、空海さんは懸命に探っておられます。

そして空海さんによって解明された理論は、仏教のご利益に限る話ではなく、神道やキリスト教の行の実践においても同様に成立するような、極めて普遍的なものとなっていて、さすがは空海さんだなあと思います。

この論文では、まず空海さんが二篇の自作の詩を紹介されて、その後、自らの詩を解説するというスタイルで論を展開してゆかれます。空海さんはなかなかの自信家ですね。

二篇の詩のうち、はじめの詩の解説が詳しくて、後の詩の解説は概説です。
 
はじめの詩は『即身(身に即して、大宇宙や万人や神や仏とつながる理論的根拠)』について述べられ、あとの詩で、『成仏』が述べられているとされていて、空海さんの興味の中心が、『即身』にあったということがよく分かります。

つまり、どうして限界と制限を持った有限の人間が、無限で全能の仏(大宇宙)と結ばれ、自身の想いをテコにして、仏(大宇宙)にはたらいてもらえるようになり、世界を改変してゆけるのでしょうか。

空海さんはそういう体験を、若い頃から何度もしておられたのですが、なぜそんな奇跡的とも思えることが実現するのか、その理論的根拠を空海さんは知りたかったのですね。

今回は、最初の『即身』の詩のはじめの2行に絞って、私なりに解説させて頂きます。

六大ろくだい無礙むげにしてつね瑜伽ゆがなり
四種ししゅ曼荼まんだおのおのはなれず
三密さんみつ加持かじすれば速疾そくしつあらわ
重重じゅうじゅう帝網たいもうなるを即身そくしんづく

今回は、まず『即身』の詩の1行目の解説です。

六大ろくだい無礙むげにしてつね瑜伽ゆがなり

「六大」とは、「地・水・火・風・空・識」のことで、人や宇宙を構成する六つのエレメント(元素)のことです。

「大」がつくのは、それらのエレメントが、局所だけに片寄って存在するのではなくて、偏在し、お互いに浸透しあっているから「大」をつけたのです。

たとえば、大地や人の肉体では、「地大」のエレメントの密度が濃いのですが、木や石や空間の中にさえ、「地大のエレメント」は存在しています。ですから、空中から砂や土や金銀を取り出すことだって出来るのだというのです。サイババさんなんかはその一例ですね。

もちろん、めったやたらとそういう現象が起こるのではなく、「識大(人の想い)」の介入が、そのような奇跡のような現象を引き起こすのですね。

また、金属の中の「火大」を大きくして、金属をグニャグニャにしてしまうのが「スプーン曲げ」ですね。この場合も、「識大」の介入がありますね。

人の「地大」は、大地の「地大」と分離していなくて融合一体です。ですから、人の身体の「地大」を整える行に連動して、日本や世界の大地を整えることも出来るのです。

以前、しあわせ通信に「雨降らしの名人」の話を書きました。

この名人は、自分自身の心の「ひから涸び」を反省し懺悔して、自分の心に潤い(水大)を復活させることによって、乾燥した大地に雨を降らせることが出来ました。

笹本ささもと戒浄かいじょうという方がいらっしゃいました。

この方は東大で心理学を研究され、あわせて仏教心理学である唯識ゆいしきの理論を研究され、その後、禅を修行されて、最後に山崎弁栄べんねい上人しょうにんとの出会いがあり、上人に帰依されてお念仏行者になられたという方です。

笹本戒浄先生の講義を能美壽作という方が筆録されて、『真実の自己』というタイトルで出版された本があって(『光明主義編集局』、昭和19年発行、非売品)、それはそれは素晴らしい内容のものです。同じタイトルで現在出版されているものもあるのですが、何だかもの足りなくて、私が手に入れた昭和19年の本の方がダントツ素晴らしいです。

笹本先生は東大で、大澤謙之先生の「精神物理学」という科目の講義受けられたのですが、大澤先生が講義中に実際にやって成功されたという、次のような催眠術の実験の話をされています。
 
学生Aに催眠術をかけます。そして、Aの前の学生Bを立たせます。
学生Aに、「君の前に学生Bが居るが見えるか」と聞きますと、学生Aは、「はい、見えます」と答えます。

次に、学生Aに「君の前に立っていた学生Bは、他の所に行ってしまった」と暗示を与えます。すると、学生Aには、Bが他の所に歩いて去って行くという光景が見えます。

そうなると、学生Bが学生Aに話しかけても、学生Aにはまったく聞こえなくなります。

やがて、学生Aは催眠状態から解かれて平常の状態に帰りましたが、
学生Aは相変わらず目の前に立っている学生Bを見ることが出来ません。

学生Bが帽子をかぶると、「あっ、帽子が宙に浮いている」と驚いています。

学生Bが学生Aが持っているものを取ると、Aは何かえたいが知れない恐ろしい力が自分の持っているものを取っていったと驚いています。

学生Bがかぶっていた帽子を、Aには見えない、Bの背中側に手で移動させると、Aは、帽子が下に移動して留まっているといいます。
帽子を背中で上下させると、帽子が上下に動いていると言います。

学生Bの背中の後ろ側の、Aからは決して見ることが出来ないはずの帽子だって、学生Bは去ってもういないんだと思いこむと見ることが出来るようになるのです。

学生Bは居ないという「識大」の信念の力によって、Bの体の「地大」が縮小して現象界から姿を消し、同時にBの体の「空大」が前面に現れて、体の後ろ側にある帽子が見えるようになったのですね。

坐禅をしていると、壁の向こう側の光景が、アリアリと、克明に見えるようになったりしますが、これは、その人の坐禅が「空」の境地に近くなると、壁の「地大」が消えて、「空大」が優勢となるので、そんなことも起こるのでしょう。

しかし、先ほどの学生Aの催眠実験で、AにはBが見えず、Bの声が聞こえないけれど、もし、学生AをBの方向に真っ直ぐ歩かせると、学生AはBに、やはりぶつかってしまうのだそうです。
学生Aは、何だか知らないものがボクの前進を妨害したと感じるのですが、眼や耳の感覚にはいなくなってしまったBが、触覚には、まだ厳然と存在しているというわけですね。

そこで、笹本先生は疑問を抱いたのです。
唯識学では、『三界唯心(識)』といって、その人の想いが投影されて世界が刻々創られてゆくのだとします。

そうすると、学生Aは、Bがいないと思い込んでいるのだから、もう目の前のAの世界には、Bはいないはずなんです。

確かに、眼や耳では、そういう世界状態が実現していましたが、触覚の世界には、まだBはいるわけです。
ですから、唯識学の『三界唯心(識)』というのは誤りではないかと考えたわけです。

そこで、師匠の弁栄上人にそのことを質問しました。
すると、上人は、隋の時代の智頴ちぎ(天台宗の開祖)が著書に、こんなことがあったと、自ら見聞した現象について書いていらっしゃると教えて下さったそうです。

ある人が部屋の中で、壁の節穴をじっと見つめていたんだそうです。すると、なぜかヒョコッと外に抜け出てしまったのだそうです。

壁の「地大」が縮小して、「空大」が拡大し、「風大」の時空移動性が発動して、部屋の外まで移動させたのでしょう。
この場合、どういう状況で部屋の中に居たのかが分かりませんが、もし閉じ込められた状況にあったのなら、解放されたいという「識大」が作用したのでしょう。

白隠禅師の『延命十句観音経霊験記』にも、これと同様の奇跡的な現象が起こったと書かれています。

不義密通が発覚して、風呂桶に閉じ込められ、明日の朝に斬首されることになっていた男がいたのですが、ひたすら延命十句観音経を称えていると、なぜか細い排水パイプを通って外に脱出することが出来たのだそうです。

これらの奇跡的な事例に共通するのは、「識大」が中心的な役割を演じているということで、お経をあげるなどの行で「識大」を統一し、その「想い」を仏や神や大宇宙に届けて、その「無限力」を発動してもらって、「五大」の再構成をして頂くということですね。

ちなみに、空海さん以前の仏教では、「地・水・火・風・空」の「五大」のみを宇宙のエレメントとしてあげており、それなら、仏教の現象世界解釈は、原始物理学の段階にすぎません。

その「五大」に「識大」を加えて「六大」にしたのは、真言密教の独創なのだそうです。

そうなると、「識大」の介入によって、世界は変化し、決定されてゆくという可能性が出てきて、観測者によって世界が決定されるのだという量子力学の理論(意識の介入によって未来が変わるばかりでなく、過去も変わるのだということが、量子力学の最新の研究で明らかになりつつあるそうです)ともつながってきます。

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